「はずかしい」はどこからきたのか?2

前回の続き。

chiha3339.hatenablog.com

 

集合的無意識のこととか、宗教と性とか考えると収集つかなさすぎるので、ひとまず自分のことを考える。

 

たとえば、今、家にドロボーが入ったら、迷わず警察に電話するだろう。

では、今、レイプされたら、迷わず警察に電話できるか?場合によってはできない気がする。

 

この違いは何?

もし、その動画を撮られてて脅されてたりしたら無理かも→動画を夫や他人に見られたらどうか?裸を見られる、セックスしてるところ見られるのはずかしい。見られたくない。これはなんで?これは恥の集合的無意識につながってる感じもする。

「レイプされた方が悪い、落ち度があった」と自分で思う。もしくは意図からそう言われる恐れ。こっちは自己否定感かな?

これって多くのレイプされた人が思うことなんだけど、なんでだろうか?

 

レイプは法的には性器の挿入がないとレイプと言えないらしいけど、ここでは私の定義で「嫌がってるのに、もしくは幼くて意味がわからないのに誰かに性的な何かをされたこと」とする。

レイプって自分の意思が無視(否定)されるし、そこから自分の価値も否定された感覚になる。自分をぞんざいに扱われることによって自分の価値が無くなったと感じる(私の場合)

 

あとは、また集合的無意識が関係ありそうだけど、「処女であることの価値」みたいなものも関係してる??非処女だから価値がない、みたいな。

 

やっぱりよく分からなくなる。

 

迷宮入り。笑

 

ただ、こうやって考えていると、自分自身は性に対して否定的ではないのが本来。それは間違いなさそう。

 

こういうことを考えてたら、「はずかしい」と思っていたことが、かなりどうでも良くなってきたのだけど、まだまだスッキリはしないな。

 

あ、「恥」についても考えたのだけど、恥って他人がいなかったら芽生えない感情だと思う。宇宙に自分一人だったら「はずかしい」ってない。

 

自分でよく分かってないことを書くから、よく分からない内容になったなぁ。

「はずかしい」はどこから来たのか?

こちらの続き。

chiha3339.hatenablog.com

 

西村さんのセッションの時に、幼少期のいくつかの出来事について話していた。

子供の頃のプールでの怖かった出来事。 - 1000の晴れ

小学3年生頃、従兄弟が私にハグやキスをしてきた出来事。 - 1000の晴れ

2、3歳の頃の出来事。隣人に性器を見られた出来事。 - 1000の晴れ

 

これらの出来事で共通に思った感じたことは

・この出来事を親に言ったら親も周りもショックを受けるのではないか。言わないでいた方が平和が保てると思い込んでいた。

・自分に価値がなくなったように感じた。「はずかしい」という気持ちがあって知られたくなくて言えなかった。

・平和な日々のためと、自分が恥ずかしい存在だと知られたくないための、二つの理由で誰にも言えなかった。

 

こんな感じのことを西村さんにお話しした。

 

西村さんは、何で「はずかしい」と思ったのか。そこを観ていくといいって。そうれもそうだなって思った。

「はずかしい」が自分の内側と繋がってる価値観なのか、外側に繋がってる価値観なのか。そういうこと。

 

その時点で、それは「外側」だなってのは間違いないだろうって出てきた。

外側のどこからきているのか観ていくといいとのことで、その時は親というよりも「ばぁちゃんかな」って答えていたけど、後に考えてみたら祖母より祖父だなって思った。

 

お金に対する罪悪感のことを観ていった時もそれって祖父の価値観で自分をがんじがらめにしてると気がついたのだけど。

 

例えば、私が既婚者と付き合っていたことやセクキャバで働いていたことを家族が知って一番怒ったり何か言いそうなのって祖父だ。

むしろ親は何も言わなさそう。何も言わないのは、親がかなり表面的に生きてて感情を見られないということもあるが、それを差し引いても、そのこと自体を非難することってない気がする。

 

祖父はきっと怒ると思う。非難すると思う。

なんとなく、祖父は「キス、ハグ、セックス自体がよくない」って思ってそうだし。それは安易にすることで妊娠につながったら困る場合があるっていうところから派生してるのかな??

 

祖父はお金のことも男女関係のことも性のことも、「ちゃんと」してないとダメ、みたいなの持ってそう。やたら説教臭かったんだよなぁ。それは愛があるからこそなのかもしれないけど、子供の頃とても鬱陶しかった。何回も同じこと注意してくるし。言ってることは正論なんだけどね。

 

あとは、母親の過去の体験から性自体を否定してた可能性があるなって思った。母の体験はここには書けないけど、きっとすごくつらかったと思うんだ、それは。これに関してはまだ言語化できないけど、性に関することが言いにくい、聞きにくい環境、言ってはダメなような雰囲気が家に漂っていた気がする。少なくとも私はそう感じていた(ってことは祖父や母だけでなくて父や祖母もかな?)

 

で、このように考えた時に、性器を見られて「はずかしい」は自分とか家族の価値観を超えた、集合的無意識に繋がってるのではないかなって思った。

 

だって「はずかしい」が祖父から来てたとして、祖父のはどこから来たのか?ちょっとよくわからない。

 

あとはインナーチャイルドに聞いてみた。

どうして「はずかしい」と思うのかな?と。

 

「性器見られたことを人に言ったら、その光景のイメージがみんなの頭の中に浮かぶから、私の裸を見られてるのと同じ気持ちになるから」とのこと。

 

みんなに裸見られることの何が恥ずかしい?と聞いたけど、「わからない、だってそういう社会だもん。見せちゃいけないことになってる」としか。

 

基本的に日本では性器を誰にでも見せないし、それは「はずかしい」にもつながると思うのだけど。多くの人はそうだと思う。

 

「はずかしい」の出どころを見るのって自分の感情を観るのだけではどうにもならない感覚があって。

これはどこかしらの裸の部族を除いて、人類全体の感覚や集合的無意識を観ないとどうにもならない感があって、一人では手に負えない気がした。

 

そういうことを考えてたら、自分の内側の価値観って多分、裸はそんなに恥ずかしくない感じがする。

 

動物はみんな裸だし。性器もみんな持ってるのに、それを見られるのの何がはずかしいのか。赤ちゃんははずかしがっていない。やっぱり後付けの外側からの価値観だよなぁ。

 

昔から、アダルト動画にモザイクがかかっていることにも、ものすごく違和感があったんだよ。

なんでそこを隠すのか。みんな持ってるものなのに隠すことの意味が本気で分からなさすぎて、それは今でも本気で分からない。

隠すことでの卑猥感を狙ってるの?笑

 

あと、卑猥という言葉。

セックスに関して「卑猥」っていう言葉を使うのもよくわからなくて。卑猥の意味も調べた。

 

卑猥は:品がなくみだらなさま

みだら:性に関してふまじめでだらしないさま

 

性に関してふまじめってどういう意味なんだろう??

品がないってなに?

 

多分、本来の自分の価値感とは違いすぎる気がする。それだけはなんとなく感じる。

 

あと、性に関する集合的無意識に関しては宗教が絡んでると思ったから、「原罪」とかもググった。なんでもキリスト教(聖書)では、生まれた時から罪があるのだとか?!なんだそれって思った。

こんなこと、信じている人は信じているの?ってびっくり。

 

お金このとを考えてた時に「所有」の概念のことが出てきて追求するのが難しくなったのと同じ感じがする。

 

chiha3339.hatenablog.com

 

地球上でお金と使っているのは人間だけ。

セックスに恥をつなげているのは人間だけ。

それだけは分かっていて、その人間だけが持っているものに対する違和感がすごい。不自然さがすごい。

 

あー、全く収集がつかない。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うっかり!過去の延長線上の自分でなんとなく選択しようとしていたこと。

5月頭でサロンの仕事辞める。

それで、当初は辞めてからすぐに自分で稼げるようになれるようにと準備していたんだ。稼ぐ金額の目標は月に8万円くらいなので、そうしようと思えばできると思う。

 

実際にセッション提供してお金をいただいているし。

 

そのつもりで進んでいこうとしたんだけど、状況が変わって。

chiha3339.hatenablog.com

 

自分でお金を稼ぐことが「稼がなきゃ」になって、不安になって、不安ベースで頑張る方になっていたのだ。

そこから、自分の観ることができなかった感情も見ることができるようになって、たくさんの気づきと変化があった。

 

その変化は自分の内面の変化。これはとても大きい変化なのだけど、外の世界での変化はそんなになくて。夫婦関係がさらによくなったとか、そういうのはあるけど、私がその変化で今すぐ稼げるようになってるわけじゃないし。

 

なんで「稼がなきゃ」になったのかなって思った時に。

夫だけ働いていて自分は稼がなかったら、稼いでないこと働いてないことが罪悪感になってたというのも気づいたりした。

 

「お金を稼がないのはダメなこと」という思い込みがまだあったのだな。

 

その罪悪感を埋めるために稼ごうとしたって、そんなの自分のど真ん中ではないから、エネルギーも枯渇しやすい。

 

そういう気づきはあったけど、その後とにかくお金や仕事のことよりも、自分をみていくことをとことんしたくなって、仕事のことはあんまり考えないで過ごした。

 

そして、いよいよ仕事辞める時期が近づいてて。

 

そんなのときに、今度新しくできるボディケアのサロンが近所で、スタッフを募集していて、それを知ってそこで働くのもいいかなって思った。

 

それで、問い合わせの連絡しようかなって思ってたんだけど、ふと、これって過去の延長線上の自分の選択だなって気がついた。

 

とりあえずお金が必要だから、とりあえずスタッフ募集しているお店ではたらく。

 

その選択肢が悪いとは思わないけど。そういうふうにやってきたから結局は上手くいかなくなるわけで。

 

ボディケアの仕事自体は好きだから、それは自分の中心からずれてはないと思う。けれど、そのサロンの雰囲気とか、メニューとか、詳しくは知らないけど、他店舗を見た時の印象から、自分が心から働きたいと思うサロンとは思えない。

 

そういう場所でなんとなく働くことを選択するのは違うなって。

 

うっかりしていたなって思った。

 

ボディケアの仕事するんならやっぱり自分でやりたい。

その上で、自分でやるまでの経過として、どこかのお店で働く方がいいと思ったらそれを選択すればいい。

 

けど、そういう考えもなしに、お金稼ぐのに「とりあえず」で考えてたから。

 

自分でお金を稼いで行った経験がないからどうしていいのかわからないことは多くても、ひとまず自分でやるって決めた方がいいなって考えた。

 

とりあえずでどこかで働くと、なんとなく働いてその稼ぎがあるから、自分の仕事も進める気がなくなったりするのも目に見えてて。

 

だから、自分で何かをやる方向ではいる。

ただ、そうすると一つ気になることが。

 

今は平日のサロンの仕事の日は息子は夕方は私の母が見ていてくれてる。

私がその仕事辞めたら、平日は毎日16時に息子の迎えに行って毎日一緒に過ごすことに。

 

これ、私にとってはちょっと厳しい。息子と過ごす時間、多すぎるのはしんどいから。そうなるくらいなら平日どこかで働く日が少しあってもいいかなって思う。今は週3だから、週2くらいでだったら気分転換になっていいかもと思う。

 

そして、ボディケアの仕事、自分にとってはちょうどいい運動にもなるから。

その仕事をしないと動かなさすぎて、逆に不調になる感じもあるし。

 

今のサロンの仕事も基本的には趣味みたいな、楽しく遊んでるみたいな感覚でやってるので、そんな感じで働けるのならいいかなって思う。

 

仕事に関してのインスピレーションの理解はやっぱりよくわからないけど。

 

あとは、今、家の片付けしていて、まぁまぁ高く売れそうなセミナーのDVDとかを売ったら、1ヶ月分のサロンでの給料くらいになりそうな感じなので、まずそれを売ろうと思う。そしたら6月いっぱいまでは大丈夫。その間に動いていけばいいかな。何て考えている。

 

問題は自分が違和感なく動いてけるかだけど。

そこには自分の価値観(フィルター)のアップデートが必要そう。

 

とにかく、またサロンのスタッフとして働くにしても、「なんとなく」で選択することはしないということだけは決めた。

 

 

 

 

 

 

お尻を触られたことの不快感を観る

こちらの記事の続き。

chiha3339.hatenablog.com

 

子供時代の出来事について振り返り、感じる作業をした翌日。

とても久しぶりに朝から体が重くて、死にたいくらいの気持ちになりながら仕事に行った。

 

プールでの出来事をありありと思い出したことで、臀部を触られた時の感覚がリアルに蘇ってきて、それがすごく不快な感じでイヤで。

 

その感覚をどうにかしたくて。

 

西村さんに質問した。

 

「お尻を触られた感覚が体に残ってるのですが、これってどうやってチャージ(体)から出せばいいですか??その感覚をよく感じる、でいいでしょうか?」という問いの後にいくつかやりとりをして、

 

西村さんから「見ず知らずの人にお尻を触られたことで、不快を感じることは悪いことではないですよね?それをチャージから出したいとはなぜなのかな?と思いました。なんでもない時に、フラッシュバックがあって過去のことが、今のように感じてイヤということですか?」とメッセージが。

 

それで「その感覚がチャージに残ってるせいで私がダメになってる感覚。なんでもない時にフラッシュバックはなくて、このことを思い出したら感覚が戻る感じです。その出来事自体を否定したいのかなって思います。自分の価値がなくなった気になるのと、自分には力がない。アワの低次1000パーセント。あとは死ぬかと思うくらいの恐怖感。死産の時の体験も時間がない感じだけど、それとは全く違う感じで時間がない、スローモーションか止まってる感じかなぁ。死産の時と対極的だなって思います」と返事をした。

 

それで気がついたんだけど、自分は触られた感覚が不快だから否定して感じないように拒否していたんだ。感情自体は出して感じてみたけど、そのチャージの感覚は感じたくなくて否定したかったのだろう。イヤすぎて。

 

 それで、その感覚とともに過ごすことにしてみた。

その時は仕事中で整体の施術していたんだけど。その感覚を感じることをどうしても後回しにできなくて。

 

施術しながら、お尻を触られた感覚を否定しないで感じていた。そしたら、感覚はただの感覚だった。その感覚自体には快も不快もないというか。

 

たとえば、夫が同じような触り方で触ったとしたら、それは同じ感覚だなと思った。

 

そうやって感じていたら、自然と、触られた感覚が薄くなってほとんど消えた。リアルに感じることができなくなった。

感覚を否定してチャージから追い出そうとしていたことが、かえって感覚が残る状態になってたんだと気がついた。

 

そ感覚自体は不快と言えるものでなかったと分かったが、それなら、プールでお尻を触られたことの何が不快だったのだろうかと疑問を持った。

 

多分その不快はチャージの領域でなくて、フィルター(心)の領域で感じたんだろうと思う。

お尻を触られた後に、彼がニヤって笑ったのがすごくイヤだったし、不快だったもん。その笑みがとても不快。

 

リラックスして緩んで過ごしてる時に、全く構えることもできない状態で、知らない人(好きではない人)に触られた。

 

例えば、道歩いてて自分のカバンを誰かに奪われたとする。

 

これも怖いといえば怖い。ビックリもするだろう。でも、自分の領域に踏み込まれてはいるけど、体の領域より距離感が遠い感じがする。突然お尻触られるのとは感覚が違うと思った。

 

「体」に触られることは、カバンを取られるのと違って、自分がもっと侵食されたような感じがするなって思った。

 

自分が家でリラックスして過ごしてる時。

もし、家の周りに不審者がいてそれに気がついたら怖いけど。

急に不審者が家に入ってきたもっと怖いと思う。

 

ちょっと例えが微妙なんだけど、体を触られるのって距離感が近い感じがする。それを同意なしでされることの不快感??恐怖感??

自分が許可してないのに知らない人が勝手に踏み込んでくることへの恐怖感・不快感だろうか?

自分の領域としてエネルギー体に繭状のものがあるとイメージした時に、その繭状のものを破って中に入ってきて体を触るような、そんな印象。

 

好きな人になら許可した上で、入られてもいいけど、好きでもない人、知らない人に許可なく入られる領域でない感覚。

 

そしてそれを避けること抵抗することができなかった自分に対しての無力感??

 

うまく言語化できないけど、そういうものを感じた。

 

とにかく、死ぬかと思うくらいの恐怖感だった。

 

あとは、触られたことを「恥ずかしい」「自分に価値がない」と思ったことについて。これは突然の出来事でびっくりした、恐怖だった感情とはまた別の話になってくる。

 

つづく。

 

 

 

 

 

「頭での理解」と「腑に落ちた理解」の違い。

「頭で理解して分かった」状態と「腑に落ちて分かった」状態この二つの感覚は、とても違っているなと思う。

 

体感的に「腑に落ちて分かった」状態が本当に分かった状態だと思っていて。頭で理解して進めることへの自分の違和感がすごくて、自分で気になっていた。

 

例えば私自身の例でいうと。

「人は自分の合わせ鏡」ということの理解。

そういう考え方を本で知って、「なるほど確かにそうだよなぁ」と思う、頭での理解。

 

その理解の状態で、夫のネガティブさがイヤだなって思った時。

「人は自分の合わせ鏡」だから夫のネガティブは自分も持ってるってことになる、という思考をする。

夫のネガティブは自分も持ってるものだから、相手に現れてるんだって納得させようとしたり。自分のどこにネガティブなところがあるのか探してみたりする。

まだ腑に落ちてない状態なのに、自分にネガティブなところがあって、そのネガティブさに働きかけようとする方向に動いたり。

 

でも、なんかこのやり方を良しとできなくなってきた。

物足りない感と、そんなの理解のうちに入らない感がすごくて。

あんまり役に立たない理解なんだ。

 

一方で、夫のネガティブさがムカつく時。「人は自分の合わせ鏡」という情報を頭で理解していたとしても、一旦それは置いておく。

まずは「ムカつく」と思うことに関して自分の中に持ってることを全部出していく。全部出して、さらに深く観ていく。出したものを眺めてみる。すると、自動的に「あれ、夫にムカついてたけど、これって自分のことじゃん?!」って気づく瞬間がある。

 

そこで初めて「人は自分の合わせ鏡」っていう考え方は本当だな!って心から思ったりする。頭だけの理解を超えた理解。

 

この二つの理解の違いが何なのか、自分で考えてみてもうまく言語化できなくて西村さんに質問してみた。

 

頭で理解して、「人は合わせ鏡」だからと考えていくのは「人は合わせ鏡」という価値観(フィルター)を採用してる状態で、それだけだと自分の内側(ガイド)と繋がっていない。

 

そうなんだ〜!!って腑に落ちて理解してる時は、自分の内側(ガイド)と繋がっていて、ガイドからのインスピレーションを受け取って理解、解釈を自分で考え、価値観(フィルター)、正解を生み出している、言語化している状態。

 

外側の世界と繋がって外から正解を得るのと、内側の世界と繋がって自分で正解を生み出すことの違いなんだな。

 

西村さんの回答にすごくピンときた。

 

だからと言って頭で理解することダメなわけでもないと思う。

頭で理解してから腑に落ちた理解になることだってあるし。私も本読んで情報を頭で理解することはよくある。

先に頭で理解しておく、それで行動することによってインスピレーションを理解、言語化しやすくなるかもしれないし。

 

だから両方あればいいと思う。

 

ただ、内側と繋がって自分で答えを生み出しているその感覚、体感を得られるようになってくると、頭だけの理解への違和感がすごくて。

 

言い方を変えると、ガイドと繋がって理解できてないと、動けないのだ。

昔はノウハウで動くことはできた(その後に結局動けなくなるけど。笑)

 

今は本当にノウハウでは動けない。

それは外側の世界(ノウハウ)だけと繋がった状態での行動になるからなんだと思う。

 

どんなに良いことアドバイスされても、自分(ガイド)と繋がってそれを理解できてないと、「そのアドバイス、頭では良いの分かるけど、できません、やりたくありません、うーん…」って感じになる。とにかく抵抗がすごい。体が動かない。やってみても結局微妙な結果になる。

そのアドバイスが自分の内側と繋がった状態で理解できてれば問題ないのだろうけど。

 

 

これって自分がセッションを提供する時もすごく大事な視点だなって思う。

 

私視点では明らかなことでも、クライアントさんが気づいてない時、こっちが答えを提示しても、私(外側)と繋がって得た答えはピンときにくい。

それよりもクライアントさん自身がガイドと繋がって自分で答えを生み出す方がいい。

 

その辺が難しいなって思うけど。あくまでも答えはクライアントさん自身が見つけるものだと思って、極力そうなるようなセッションを心がけてる。

 

もしこっちから答えの可能性があるものを提示する時は「私は〇〇だと思うけど、これってどう思いますか?」などと、断言ではなく伝えるといいって西村さんにも教えてもらった。

 

答えは自分の中から生まれる。

外の世界を探してもない。

 

この感覚が育まれたのってLDMレベルアップクラス受け始めてからだと思う。昔はなんでもググってたけど、それがぐっと減った気がするなぁ。 

インスピレーションの理解が難しい。LDMレベルアップクラス再受講DAY2

堀内康隆さんのLDMレベルアップクラス。

 

当日参加できなくて動画で進めてる。

 

DAY3の途中までみて間が空きすぎたから、また最初からみることにした。

昨日はDAY2の前半を見た。

 

過去の自分からのビジョンを見ていくワーク。

DAY1の未来からのビジョンのワークの感覚と最後に統合していく。

 

過去からのビジョン。その感覚は「こんこんと湧き続ける喜びの泉」とタイトルつけた。

その泉の色はゴールドで。

静かに静かに泉の水が湧き続けているビジョン。

 

未来からのビジョン。その感覚は「自然と花と蝶」とタイトルつけた。

 

その二つを統合。

 

そこで、人生とはなんですか?の問いに「余白を味わう」「自然を味わう」と出てきた。

2ヶ月前にした時は「自分自身を丁寧に生きること」だった。

 

大切な価値観はなんですか?に対して「必要なものだけで生きる。いらないものはいらない」って浮かんだ。

2ヶ月前にした時は「心地よく自分を表現すること」だった。

 

 

本来の自分を生きることに意味があるとしたら?に対して「空っぽ、何もない、余白の価値を理解していく」と浮かんだ。

2ヶ月前にした時は「自然体」だった。

 

そして統合した感覚には「空」というタイトルが浮かんだ。

2ヶ月前にした時は「自然そのもの」だった。

 

変わってる〜。

ちょうど、2ヶ月前に受けたあとに、仕事辞める流れになって、その頃からとにかく「家の整理整頓・掃除をする」というインスピレーションがずっとあって。なかなか取り掛かれなかったのだけど、先日あまりにぐちゃぐちゃすぎて一気にだいぶ片付けた。ちょうどDAY1を見直した後。

 

まだ要らないものも家にたくさんあって、これから捨てていく予定なんだけど、ひとまず捨てたスペースに余白ができて、そこを眺めてるととてもいい気分になるんだ。

本棚の空いてるところとか、押し入れの整理された空間を見てるだけで、体が緩んでいい気持ちになれる。

 

そして、今過去のことをブログに書いているのも多分、全部出して観るっていうある意味片付けの過程だと思う。

これも、家の掃除同様に、前からやりたかったけど、なかなかできなかったのが急に書く方に体が動き出した感じ。

 

片付けって、まずは、あるものを全部出してみる、っていうのが大事だから。

(色々本読んだけど、大体どの片付け本にも書いてあって自分もその通りだと思う)

自分の体験からの思考や感情を全部出して、観て、いらないものは捨てていく作業になってるんだと思う。

 

今は、自分にとっての快(必要なもの)と不快(要らないもの)を物質レベルでもエネルギーレベルでも選別してる最中なんだろうな。

 

インスピレーションに関して、この辺は理解はできるんだけど、どうにも理解できないところがあって。

 

LDMのワークをやればやるほどに、その体感や自分のビジョンがどんどん神様みたいなものになっていって、いつも周りには誰一人いなくて。

 

神様っていうか観音とかアルカイックスマイルの仏像みたいな感じかな。

その微笑みが宇宙そのものみたいな印象の。

余談だけど、奈良の中宮寺中宮寺の仏像また見に行きたい。

 

周りに誰もいないことがイヤとか、そういうわけではなくて、不思議で。

夫も息子もいないし、友達も、仲間も、知らない人も、誰一人そのビジョンに出てこなくて。

 

昨年やった時に、みんなで手を繋いでいるようなビジョンは少しあったけど…。手しか見えなくて。

 

西村さんのオンリーワンビジネス構築講座でやった誘導ワークでも、自分が誰かにセッションなどをしている感じが全然なくて。

 

洗練された場所に一人でいて。一人で何かしてる感じなんだ。

 

そのビジョンをどう解釈していいのかよくわからなくて。

だって、自分はなんらかのセッションを提供して生計を立てていこうと思っていたのに、そのビジョンからはそんなふうには全く思えなくて。

ここに関しては結構混乱してる。

 

ここまで書いてて、もしかしたらまだ視野が浅く狭く、見えてないところがあるのかもしれないなと思った。

 

なんかわからないけど、未来の自分は中宮寺の国宝、如如意輪観音のようになってる。笑

 

見た目って意味じゃなくて、放つエネルギーがそうなってるってことなのかなぁ。

 

私にとってインスピレーションの「理解」が難しくて。

とにかくVIRAPシートに書いた具体的な行動(カフェですごす、森で過ごす、何もしない、など)を片付けと共にやっていこうと思う。

 

以上、LDM知らない人には何のこと?っていう記事。

 

このブログ、基本的に自分自身のためと、私をファシリテートしてくれてる西村さんに読んでもらうために書いてるところが大きいけど、今回の記事は特に西村さんへの報告みたいなもの〜。

 

 

 

 

初めてのフラッシュバック的な体験

幼少期の体験に関するインナーチャイルドのこと、下のブログのことがあってからはしばらく落ち着いたいた。その時点で出せる感情は出したから。

chiha3339.hatenablog.com

 

そこから数ヶ月後に自分の状況が変わって、そのインナーチャイルドがまた出てきた。きっかけは自分が前は感じることができなかった悲しいとか、苦しいという感情や体感を感じることができるようになったからだと思う。

 

chiha3339.hatenablog.com

 

悲しみを感じられるようになって、毎日出てくる感情をノートに書いて、インナーチャイルドに声かけたりして泣いていた。

これって結構体力がいるんだ。だから疲れは感じていたんだけど、これまで感じられなかった感情が畳みかけるように出てくるものだから、それを観ることを先延ばしにできなくて、睡眠削ってやっていた。

 

それで、息子に対してもまたイライラしてきて。

ある日、疲れていて自分に余裕がないのと、部屋がぐちゃぐちゃなのと、息子が無理難題を言ってくることで限界がきた。

早朝に、眠いのに息子が「起きよう」って言ってきて。私が応じないと髪引っ張って起こそうとしてきたりしていた。そういうのがいくつか重なって息子に激怒して、喚き散らした。そして、この状態で自分が子供といることが無理なので、うちの母に息子をお願いして自分はネカフェにてノートを書くことにしたのだ。

 

息子へのイライラや怒りは、インナーチャイルドにつながっているのがもう明白だった。明白だけど、まずは息子に対しての思考・感情を全部出していった。

怒りを出した後に、何でそんなに怒っているのか自分に聞いてみる。

すると、

・私の気持ちはいつも置き去り

・どうせ私が犠牲にならなきゃならないんだ

・私の気持ちが無視されたる

・私に価値がないから大事にされないんだ、無視されるんだ

とか出てきた。

 

とにかく、「私の声を無視するな」とか、「私を大事にしろ」て怒っていた。

 

それで、過去のことについて観ていこうと思ったのだけど、あまりに昔のことすぎて文字に書くのが難しそうだったので、先にその時の感情を絵に描いてみた。

 

2、3歳の頃の出来事。隣人に性器を見られた出来事。 - 1000の晴れ

f:id:chiha3339:20210416220416j:plain

この出来事に関しての感情の絵。

ただただ、悲しい。多分、花は私だと思うのだけど、凍ってるか冷たくなってる。この絵から、さめざめ泣いてる気がした。実際その時は一切泣いていないけど、本当は悲しくて泣きたかったのかもしれないなって思った。
 

その後に書けること書いてみた。

 

なんでそんなことするの、悲しい。涙。イヤだった。わからなくてもイヤだった。何かおかしなことされてるのはわかった。悲しい。凍りついた心。ショック。泣けない。緊張。胸から喉にかけてのイヤな感覚。心の動きを止めたような、第4チャクラを氷つかせたような感覚。なんで私なの?

 

この出来事に関して、こういうふうに悲しいって感じたのは初めてだった。

 

小学3年生頃、従兄弟が私にハグやキスをしてきた出来事。 - 1000の晴れ

f:id:chiha3339:20210416221107j:plain

最初の絵の「悲しい」に加えて、もっと複雑な心境を感じた。

ノートに書いたこと。

なんでそんなことすんの?いつも優しくて遊んでくれた、兄のようで大好きだったのに。あなたにとって私ってなんなの?ただの道具みたいなものなの?残念。私の気持ちはどうでもいいの?嫌がってないからってやっていいと思ってるの?いっつもモヤモヤしていた。胸から喉にかけてのイヤな感覚。大好きな従兄弟だから、警戒することもできなかった。そもそも、10歳前後でそんなこと警戒する考えなんてない。私はどうすればよかったの?このことを言ったら、おじさんもうちの母も周りが驚く。従兄弟が怒られるんだ。自分は恥ずかしいことされと思っていたし、私が言ったら私も含めてみんなが可哀想になるって思った。大好きで信頼していたのに、こんな裏切り、なんだよ。

 

子供の頃のプールでの怖かった出来事。 - 1000の晴れ

f:id:chiha3339:20210416221833j:plain

全くの無防備な時、なんお警戒もしてない状況で急にそうなったので、心臓止まるくらいの恐怖。パニックすぎて声も出せず。

絵は、あまりにショックすぎて、花をバラバラにして感じなくすことで平静を装う感じかも?

この出来事を思い出したら、心臓がドキドキしてきた。これまで何回も思い出した時は全くそんなことがなかったから、驚いた。

心臓のバクバクと、呼吸も浅く早くなった。

お尻を触られた時、後ろから羽交い締めにされた時の体感と同じ感覚。

当時は、その体感を早く収めようとして、多分自分で呼吸をととのえたりしたんだと思う。

今回はその体感をしっかり感じてみることにした。さすがにこれは結構きついけど。

 

パニックの体感でノートも書いてみた。

 

すごいショック。完全に緩んでる時の出来事。まったくの無防備で起きた。

息が止まりそうなくらいの恐怖。

胸から喉にかけてのイヤな感覚。恐怖を喉に押し込めたような感覚。これを誰かに言うことは、この恐怖を思い出すことになる。何もなかったことにしないと怖すぎる。

こんなショックなこと母には言えない。妹も一緒に来て楽しく遊んでるのに、私が余計なこと言ったら楽しさに水をさすことになる。

幸せな日が壊れてしまうことになる。

胸から喉のイヤな感覚。完全に閉じた感覚。花の香りの温泉(私の良い状態の時の体感)と真逆な感覚。

心臓がバクバクして痛いくらい。

 

(さすがにここで一回インナーチャイルドに声かけてみた)

「怖かったね、怖かったね」安心するまで抱きしめてるイメージで。

 

助けてって言えない。

 

助けてー、助けてー、助けてー!!

 

書きながら叫びたかったけど、ネカフェだったから無理だった。笑

 

こんなフラッシュバックみたいな体感は初めてだったから、さすがにどうしようかなと思った。

 

一連の内観や癒しを、ヒーリングやLDMのツールを使わずに自分でやりたいという謎の意思があってここまでやってきたけど、一回、LDMのネガティブ感情の調和ツールを自分で自分に使ってみた。

 

(ちなみにホメオパシーのレメディとフラワーエッセンスはたくさん使っていた)

 

ネガティブ感情の調和ツールで、この恐怖感を手放していいかの問いに、「手放すなんて、そんな自信ない」と出てきた。

そして、このことから何か学ぶ必要があるかについては「助けてー!って叫ぶことを学ぶ。怖いー!って叫ぶことを学ぶ」と出てきた。笑

 

たしかに。それが出来てたら、こんなことになってなかったもんなぁ。

「助けて」を言えないで生きてきた感は、ありすぎるくらいある。

 

LDMのツールの後はインチャに安心するような声かけをひたすらした。

 

インチャとしては、「こんな出来事なかったらよかったのに」「普通にプールで遊んで帰りたかった」「それが無理なら誰か助けて欲しかった」とのことだった。

 

この日はこの辺で切り上げて家に帰ったのだけど、とにかく自分の女性性がものすごく低次の状態になっている感覚が続いた。

 

もう疲れた、消えてなくなりたい、何も頑張れないし、したくない、しんどい、どうせ無理…。

 

生命力が根こそぎ削がれた感覚とも言えるかな。

 

次の日。

久しぶりにすごい無気力感を朝から感じていた。

 

その日は仕事の日で。

仕事行くことは普段全く問題なく、軽い体でいられるのだけど、この日は違っていた。

 

その時書いたこと。色んなインチャが混ざってるけど気にせず書いた。

 

何もしたくない、ずっと寝てたい。学校行きたくない。何やっても踏みにじられる。ただ生きてるだけで怖いことされる。イヤなことされる。頑張ってもバカにされる。私の気持ちなんて無視される。そんなもの抵抗したって無理なんだ。全部なくなれ。どうせ何したって否定されるんだ。何も感じない。大好きな春の心地よさもいつもより受け取れない(五感が鈍っている、麻痺している感覚)どうせ生きてたって人に踏みにじられる。もうどうでもいい、死にたい。イヤなことされる、チカラがないからやり返せない。無力感。あんであんな怖い目に合わすの?私が何かしたの?ただ遊んでただけ。なんでこっち来るの?とにかく気力が湧かない。全てがめんどくさい。もうどうでもいい。低次アワ(女性性)1000%

 

書いた思考や感情、体感って、私が子供の頃からずっと持ってるものだったと気づいた。

多分、小学生の時には既にそうで、とにかく学校に行くのがイヤで。

学校の日はとにかく体が重いのだ。

大人になってからもそうで、仕事の時は体が重くて。休みの日は体が軽い。

 

とにかく学校や仕事に行きたくない体感が常にあった。それは学校や会社という組織が私の魂的に合わない感覚があったからだろうと思っていたけど。

 

それだけじゃなかったんだ。だって、学校に行けばプールの件の人に会うかもしれないし、行きたいわけないよなぁ。他にもすごく会いたくない人いたし。前に書いた野島とか。体育の授業とか本当にイヤだったから。

 

そういう周波数で生きてたから、学校に引き続いて、仕事も行きたくない、体が重くなるような状況になっていたのかもしれないなぁ。

 

フルタイムの仕事辞めてからはそういう体の重さってなくなって、今行ってるサロンの仕事の日も、体も心も軽いから、久しぶりに仕事の日に体が重い体験をした。昔を思い出した。

 

プールでの体験を体感ごと思い出した次の日がこれだから。

 

20代のころ、会社なくなれとか、死にたいとか思ってたのってこの件でのインチャが大きいのだろうなった思った。

 

子供の頃から無気力感がすごくて、何でもめんどくさい、何もしたくないって、いつも思っていたのは、プールでの件やその他の件を抑圧するために常にエネルギー使っていたことと、それらの出来事で価値や力が奪われたと自分が思ったことから来てるんだ、きっと。

 

そんなふうに気がついた。

 

そして、昨日プールでの出来事を思い出したことによって、お尻を触られた時の感覚が蘇っていて、すごくイヤで気持ち悪くて困っていた。

 

続く